『わが人生の幽霊たち うつ病、憑在論、失われた未来』
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単行本(ソフトカバー) – 2019/1/31
00:失われた未来
「緩やかな未来の消去」
アーカイブによって実質的にありとあらゆるものを再び視聴することができる。 p19 全てがデジタルなものに回収されていくなかで、失うことそのものが失われてしまったのだ。
大型ショッピングモールや空港などの運送に関わる総称的な地帯。後期資本主義の空間を支配。
p23 人生は続くが、しかしどこかで時間が止まってしまっているのである。
『未来のあとで』
60s〜80sに育ったフィッシャーはポピュラー・ミュージックの変化によって文化的な時間の移り変わりを測ることを学んだ。
21世紀の音楽には未来の衝撃が失われてしまった。
p26 20世紀の実験的な文化が、新しさなど無限に可能であるような気にさせる遺伝子組み換え的な熱狂に囚われていた一方で、21世紀は、有限性や枯渇という屈辱的な感覚によって虐げられている。今こそが未来なのだという気分にならないのである。
「フューチャリスティック」な音楽
フューチャリスティックなものを考えると、今でもクラフトワーク的なものになる。21世紀にクラフトワークみたいなバンドがいるか。
p27 クラフトワークの音楽がすでにある音楽に対する冷淡な不寛容さから生まれたものだとすれば、現時点の際立った特徴となるのは、過去に対する異常なほどの順応さである。というよりもいまでは、過去と現在の整然とした区別が崩壊してしまっているのだ。
2005年の時点ではUKのダンス・ミュージックは変化しているが、かなり詳しい人間だけが見分けられるような相対的でごく小さなものである。
自覚的にアナクロニズムが演じられている方法
「歴史的」なものに属するが、現代的なスタジオや録音技術などのテクスチャーにおける不一致のようなものがある。
p30 それらが現在にも過去にも属しておらず、なにかしらの「時間を超越した」時代の中に、永遠の1960年代や永遠の1980年代の中に属しているということである。それを形作っている要素が、いつのまにか歴史的な変化という重圧から解放された結果として、「古典的な」音というのはいまや、新たなテクノロジーによって定期的に磨き上げられうるものとなっているのである。
問題になっているのは心理的なノスタルジーではなく、むしろ歴史的な時間の持つ一貫した意味が崩れ去ったときにのみ生じるものであるがゆえに、ノスタルジーモードは心理的なノスタルジーを妨害する何かである。
過去に対する憧れやあからさまに表現したりする形象はひとつの範例となるかたちで、近代的な運動の方向性に属している。
連結や治安を破壊したことが価値の定まったものや慣れ親しんだものへの渇望をもたらすのでは。
労働文化の苛烈さと不安定性によって人は疲れ果てていると同時に過度な刺激にさらされた状態に置かれている。
文化は脱エロス化されたものとなっている。
生産に関しても関係があり、アーティストたちから新しいものを生み出すための資源を奪っている。
60〜80sにかけてのポピュラー・カルチャーにおける実験には資金の関節的なリソースとして福祉国家と高等教育のための助成金があった。
公共放送が市場化されていくと、すでに成功したものに似た文化的な生産物が生み出されていく傾向が高まる。
p36 サイモン・レイノルズが極めて簡潔に表現しているとおり、ここ最近の数年間のなかで、日常生活は加速しているが、文化は減速している。 これヤバいパンチラインだ
p36 こうした時間的な病理の原因がどのようなものであるにせよ、その病理を逃れえているような西洋の文化領域はあきらかに、何処にも存在していない。かつて未来を描いて見せたものたちの砦だったエレクトロニック・ミュージックも、もはや今では形式的なノスタルジーを逃れえてはいない。
フィッシャーはデリダに失望したみたい。
p39 「デリダの狙いは一般的な「憑在論」を定式化し、これを自己同一的現前世の観点から存在を思考する「存在論」に対立させることにある。そのさい、亡霊の形象にかんして重要なこととは、それが完全には現前し得ないということである。それは、それ自体においては存在し得ないが、しかしもはやないもの、ないしいまだないものとの関係をしるしづける」 (『ラディカル無神論――デリダと生の時間』)
超自然的なものの復活の試みではない。
潜在的なものの働きのこと
もはやないもの、だが一つの潜勢的なものとして効果を持ったままにとどまっているもの
いまだ起こっていないもの、しかし潜勢的なもののなかではすでに効果を持っているものである
いま現在の行動に明確な形を与える人を惹きつける何かや予測のようなもの
「遠隔―テクノロジー」による時空間の崩壊
根源的な形で収縮された時空間であるサイバースペースを内にはらんだ「遠隔―テクノロジー」による効果を考えた本
憑在論的アーティスト
テクノロジーが記憶を物質化するあり方に心を奪われていた。
p43 物質化された記憶に対する強迫観念は憑在論における重要な特徴、つまりLPレコードが生み出す表面のノイズである、クラックル・ノイズの仕様へとつながっていく。こうしたクラックル・ノイズはそれを聴くものにたいし、そこで聞こえているのは蝶番から外れた時間なのだということを意識させる。それはわれわれが、現在という幻想の中へ陥ることを許さない。
幽霊を手放さないこと
喪は失われた対象からの緩やかで痛みを伴うリビドーの退却
メランコリーはリビドーは消滅したものに対して結びついたままにとどまる。
p45 取り憑くことはつまり、失敗した喪なのだと考えられる。
p47 つまりそれは、もはや根源的な変革にたいするじしんの欲望が遂げられるという期待をもっていないにもかかわらず、みずからが諦めてしまっているということに気がついていない、そうしたもののメランコリーなのである。
p47 「いずれも痛みをともなうものである、帝国的で植民地的な歴史を構成している陰鬱な細部をどうにかしてうまく処理していく義務や、部外者や他者性にさらされている状態を恐怖することがなくなるように、人を動けなくするような罪悪感を、多文化的な民族意識の建設を先導しうる、より生産的な恥の意識へと変えていく義務」を回避することに関わるものである。
なにと比較してノスタルジーなのか
p50 1970年代が新自由主義がわれわれに想起させようとするものよりもよいものなのだとしたら、われわれはまた、21世紀の文化の資本主義的なディストピアは、単に我々に押し付けられたものではないということも認めなくてはならない。
かといって問題は、たとえばインターネットか社会保障かという二者択一にあったわけではない。失われた未来は、そうした偽りの選択を強制しない。憑在論について考えるとは、たとえばそうしたことなのだ。その代わりに浮かび上がってくるのは、別の世界の亡霊なのである。そしてその亡霊の住む世界のなかでは、通信テクノロジーが生み出すあらゆる驚異が、社会民主主義の馴致しうるかいなかよりも、はるかに強力な連帯の感覚と組み合わされることになる。
ポピュラー・モダニズムは完結したプロジェクトではない。
70年代、文化は労働者階級の創意にたいして開かれていたが、レイシズムやセクシズム、ホモフォビアが当たり前にメインストリームの慣例的な特徴だった。
憑在論が切望するのは、特定の期間ではなく民主化や多元化のプロセスそれ自体の奪還
「個人的なことは政治的である」というフレーズを最も生産的に解釈する方法
個人的なことは非人称的なことである。自分自身であること(自分自身を売り込むことを強いられること)ほど惨めなことはない。
文化や、文化に対する分析が価値を持つのは、それが自分自身からの逃走を可能にする限りのことである。
ダークサイド・ジャングルの名盤
どんな人間にも演奏することのできないリズムへと変化 サンプルの再生速度を落とし、ソフトウェアが隙間を埋めようとする際に生み出される奇妙に金属的な異常生成音の利用
ネオリベ的世界観における連帯やセキュリティの破壊から帰結されるもののような音によるフィクションの一種。
p57 なかでもダークサイド・ジャングルは、追われることのスリルにかかわるものであり、無慈悲な捕食者から逃げ回るテレビゲームの一喜一憂にかかわるものであり、そしてまた、走り回る獲物の動きを封じる高揚感に関わるものだった。 p57 ディストピア的な衝動からくる救いのない否定性は、なんらかの点でさかしまなユートピア的身振りへと転化し、絶滅は、根本的に新しいものの条件となるのである。 01:70年代の回帰
スマイリーの計略――『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』
過去はエイリアンの惑星である――『Life On Mars』の初回と最終回 「世界はその見かけほどに惨めなものになりうるか」――ディヴィッド・ピースとその翻案者たち
さあさあ、それはおいといて――ジミー・サヴィルと「係争中の70年代」
『Burial』では、一つの都市(サウス・ロンドン)の失望と苦悩を表現。
匿名性を重視
声に対する扱い
p169 ダブに影響された音楽のあまりにも多くが、単に声を消してしまい、エコーを強調することで満足しているが、ベリアルは、ダブ化することとは、歌にヴェールをかけることであり、歌をもどかしいような痕跡の織物へと変えてしまい、それを部分的に脱実体化することによって、よりいっそうひとを惑わすような潜勢的な対象へと変えてしまうことなのだと本能的に知っていた。 クラックル・ノイズもそうしたプロセスの一部
天使というメタファー
ピッチの変更で男の声を女、女の声を男、と曖昧に変化させていく
The Caretakerのライナーノーツ
「私はずっと記憶や、それを思い出すことに魅了されてきました。それが音と結びついている場合はとくにそうです」
「記憶のなかにあるものは簡単に思い出せますが、別のものは全く掴み取ることができそうにない。こうしたアイデアを更に展開したのが、ボックスセット(2006年『Theoretically Pure Anterograde Amnesia』)」で私がやったことでした。それは過去のことは思い出すことはできるけれど、新しいことを思い出すことはできないという、健忘症の特定の形式をもとにして制作したものです。そういった状態を音によって創造するというのはひとつの挑戦でしたが、結果としては本当にやりがいのあることでした。
過去の形式によってはっきりと方向づけられている文化を、健忘症的なものとして表現するというのは、奇妙なことに思われるかもしれないが、現代という時代に充満しているノスタルジーのかたちはおそらく、過去に対する熱望としてではなく、新たな記憶を生み出すことができなくなっていることとして、もっともはっきりと特徴づけられるものなのである。
ポストモダンの袋小路を「あたかも私たちじしんの現在の経験を美的に表象することが不可能になっているかのように、みずからの現在に焦点を定めること」ができなくなっている状態と表現 現在を思い出すことができないがゆえに、過去が絶えず回帰してくる。
『ボーン』シリーズ
『The Death of Rave』
クラブやダンスフロアの精神のなかで失われてしまったものについて
エネルギーの喪失
何かが爆発してもそれが自然に育まれる前にオンラインでパロディされ殺してしまうことになる。
憑在論の音
憑在論は本来音の次元を持っている。
p193 音との関係で言えば、憑在論とは、ここにないものを、録音された声を、現前を保証するものがもはやない声を聞くことをめぐる問いである。
<リアルなもの>の幽霊
シャイニングの中において、超自然的な幽霊の可能性が抑えられている時にのみ、<リアルな>幽霊に遭遇することになる
家父長制とは憑在論であるというテーゼに読み替えられる
過去の未来が現在に取り憑く。
Little Axeの『Stone Cold Ohio』のヤバさ
ポップスにおける特権的な地位を占めるブルースに回帰することで、そもそもの起源に幽霊がいたことを示す。
憑在論とは、欠陥や、消去された名前や、突然の誘拐によって形作られた歴史にこそふさわしい時間的な様態である。
どの曲もサンプリングから始まっているらしい
ダブを用いることで、不気味なものとしてのブルースを時にならぬかたちでふたたび出会うことができる。
p211 私がダブの減算作用と呼んできたもの、言いかえれば、その時に減算されるものとは、何よりもまず、現前なのである。源泉から切り離されたサウンドを意味するピエール・シェフェールの用語に、「アクースマティック」というものがある。それを受けていえば、ダブのプロデューサーは、アクースマティシャンであり、生きられた身体から切り離されている音の幽霊を操作するものなのだといえる。ダブの時間とは、有機的な組織を解体することであり、ダブの制作者が担うーー死んだものを蘇らせるというーー降霊術師の役割は、生きているものをまるで死んでいるかのように扱うことと対になっているのである。ブルースマンたちや、ジャマイカの人たちの歌い手たち、あるいは彼らが交信する演奏家たちにとってと同様に、little axeにとって、憑在論は一つの政治的な身ぶりである。つまりそれは死者たちは黙ったままでいはしないのだということを示す印なのである。
他の誰かの記憶ーーAsher, Philip Jeck, Black To Come, G.E.S, Position Normal, Mordant Music
ターンテーブリスト
G.E.S(Gesellschaft zur Emanzipation des Samples:サンプリング解放教会)の『circulation』 極小のサンプリング要素を取り上げ、ループさせたらコラージュした上で、公共空間でそれを再生し、さらにそれを録音するという発想。
サイモン・レイノルズ曰く「憑在論のゴッドファーザー」
記憶の衰弱というテーマ
「別の時間と別の人生から射し込む古い太陽の光」――ジョン・フォックスの『タイニー・カラー・ムーヴィーズ』
電気と霊たち──ジョン・フォックスへのインタヴュー
もうひとつの灰色の世界ーーDarkstar, James Blake, Kanye West, Drakeそして「パーティ憑在論」
「Pinocchio Story」
時系列に聞いて行くと、幽霊がだんだんと物質的な形式を身に纏っていくのを聞いているような気分になる
21世紀のポップスの支配的な形式である国境を越えたクラブ・ミュージックに対する名前として最も相応しい
憑在論はそこで、否認されたかたちをとっている。
The Black Eyed PeasのI gotta feeling
p278 David GuettaのPlay Hardも同じような終わりのない反復の感覚を呼び起こす。そこでは、快楽はけっして休んではならない義務のようなものになっていてーーsaid a hustler's work is never through / work hard play hardーー快楽主義は、はっきりと労働と並行するものになっている。「仕事みたいにパーティをつづけろ」。この曲は、常に接続されてあれ、自分の主観性を経済化するチャンスを決して逃すな、といった要請によって、労働と労働ならざるものの境界がじょじょに破壊されてしまった時代に対する、完璧なアンセムとなっている。ある意味で、パーティーをすることはいまや、ひとつの仕事なのである。 〇三:場所の染み
「じぶんたちから逃れていった時間にずっと憧れている」──ローラ・オールドフィールド・フォード『サヴェッジ・メサイア』への序文
ノマダルジー──ジュニア・ボーイズの『ソー・ディス・イズ・グッドバイ』 曖昧な部分──クリス・ペティットの『コンテント』
ポストモダンの骨董品──『ペイシェンス(アフター・ゼーバルト)』 「知覚できない未来の震え」──パトリック・キーラーの『廃墟のなかのロビンソン』
解説
開かれた「外部」へ向かう幽霊たち──マーク・フィッシャーの思想とそれが目指したもの (髙橋勇人) 過去に存在し、資本主義リアリズムを構成するネットワークに属していなかった空間を憑在論は想起させることができる。
映画や音楽の「不気味さ」「異様さ」が資本主義の外部とどうつながっているのか。